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伊藤みき、平昌五輪への誓い

世界選手権の出場権をジャパンチーム女子でただ一人手にしていながら、出場を見送った伊藤みき。そのときの状況をこう語る。

「シーズン中に膝が痛いことがたびたびあったんです。それで、世界選手権の本番前日の公式トレーニング中に、ちょっと激しい痛みが出て。無理をしないでお休みしようということにしました。ただ、大事に至ったとか、平昌五輪出場がダメになったとか、そうした状況ではないので安心してください。自分にとっては、五輪シーズンに向けていい決断ができたと思っています」

'17シーズンは、彼女にとってどんなものだったのだろう?

「フィンランドのルッカで行われた開幕戦は決勝に出られたんですが、次のレイクプラシッド大会前にJISで行われた事前合宿で、具合が悪くなって。生まれて初めてインフルエンザにかかってしまったんです。それで、実家に帰って4~5日安静にしていました。その後、チームのみんなより遅れてレイクプラシッドに入って、試合には出なかったのですがひとりで練習していました。

ディアバレーにはジャパンチーム全体が出場しなかったので、次は韓国ですね。いい滑りができていたので、悔しいリザルトでした。平昌の五輪コースはとてもいいコースでした。選手村が遠いのは気になったんですが(笑)……コース自体はよかった。暖かくて雪は降らない場所だと聞いていたのですが、今回は寒かったので雪も降っていて。五輪は当日の天候次第でコンディションはかなり変わってくるでしょうから、あまりコースや雪質のイメージをかためておかない方がいいでしょうね。そのことはソチで学びました。
たざわ湖は、気合を入れていったので、2レースとも予選落ちという成績はやっぱりショックでした。『ああ、こういう乗ってこないときでも滑らなゃいけないんだ』って。乗ってこないというのは、精神的なものではなくて、滑りが乗ってこないという意味です」

プレ五輪シーズンは総合31位と不本意な結果だったが、約8ヶ月後に迫った平昌五輪への思いは強い。

「自分が競技を続けているうちに、まさか、アジアで冬季五輪があるとは思わなかったです。
普段は海外のレースはいつも時差に苦しむことになるんですが、韓国は北米やヨーロッパと違って、時差もないし環境が日本に近い。これは私達日本の選手にとって、とても有利だと思っています。
実は私、高校時代にたまたま韓国語の授業をとっていたんですね。大学時代もその流れで、第二外国語は韓国語を選択しましたし。韓国人の先生に教わっていて、韓国の文化も勉強していました。だから、ハングル文字はだいたい読むことが出来るんです。つまり、韓国に行っても文字に対するストレスがない。これは自分にとってはアドバンテージになると思います」

五輪の舞台とは不思議な縁があるようだ。

「あとは、私の滑りが元に戻ればいいだけなんですよね。ソチで悔しい思いをして、その後、復帰できたことはよかったですが、まだトップで戦えていないので。オリンピックは平昌が最後にチャンスになるかもしれないので、この春は、一度フラットになって身体と心を見直したいです。ここ2年、必死に取り組んでいるのに結果が出ない。たぶん、何か大きな理由があるからでしょう。なので、その理由を見つけて潰しておこうと」

今やトリノ五輪は、ベテランになった彼女は、自分の今後についてこう考える。

「スキーを始めた頃から、父親から『息の長い選手になれ』といわれていました。でも、私は長く続けることはカッコイイと思っていなかったんですね。パッと優勝してパッとやめたいなと。選手は毎年トレーニング期間があって、シーズンが始まって、レースを転戦して……その繰り返しですが、今はそれがなくなるというのが考えられない。『最後のチャンスになるかもしれない』とは言いましたが、できるだけ続けたいとも思っていて、あまり、『いつまでやろう』というのはないですね」

ただし、自分のなかで決めていることはある。

「ただ、世界選手権で表彰台に立ったり、W杯で優勝したり、以前は世界のトップで戦い続けていたいので、この成績のままでダラダラと続けるのはイヤです。競技は勝つためのものなので。それが私の本音です。私がやるべきことは、ひざの痛みと戦うことではない、トップと戦うことがやるべきことだって自分に言い聞かせています」

ジャパンチーム女子のリーダーとして現状をどう見ているのだろうか?

「みんなのスキーはよくなっています。チームの雰囲気もいい。トレーニングもハードにやっている。それなのに成績が出ないのは私も不思議に思います。練習をちゃんとやっていないというならわかりますが。そうじゃないだけに余計に悔しい。
ただ、韓国でみんなでお昼ごはんを食べているときに、『絶対になんとかしようね。頑張ろうね。私達もビブナンバー20番台の戦いはしたくないね』と、気持ちを確認しあいました。とくに(村田)愛里咲とは、一緒にトップで戦っていたので、『そこに戻ろうね』って」

そんな伊藤みきが、「温かく、軽く、動きやすい。スキーウエアとしての基本を大切にしている。
私にいい滑りに導いてくれるギアの一つ」だというのがFABLICEのウエアだ。
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史上初の五輪4連覇を目指すHartの挑戦!

発売中のブラボースキーvol.1では、日本で開発されているスキーブランドHartのあゆみを振り返った。ここでは、スペースの都合上割愛したエピソードを折り込みつつ、その“完全版”をお届けしたい。現在、モーグルをやっている人はもちろん、古くからのモーグルファンもかつてのモーグルシーンを思い出しながら読んでいただきたい。

カービングタイプに生まれ変わったF17

【1998~2001年】

ハートはもともとフリースタイルの母国・アメリカのブランド。そのライセンスを日本のスポーツ用品メーカー「ジャパーナ」が受け継ぎ、現在に至るまでモーグルの競技シーンを牽引してきた。
90年代中盤、のちに長野五輪のモーグル金メダリストであるジョニー・モズレーや、トロイ・ベンソン、ショーン・スミスらワイルドなアメリカンモーグルの体現者たちが、その時代のハートのイメージリーダーだった。
そして、’98年の長野五輪には、三浦豪太、原大虎、上村愛子といったジャパンチームの精鋭陣がハートの板を履いて出場している。

●RESULT
‘98長野五輪
男子=三浦豪太:13位、原大虎:15位
女子=上村愛子:7位

実際にジャパーナが独自の商品開発を始めたのは長野五輪後のこと。当時、圧倒的な選手層を誇っていたカナダチームのなかで、勢いのあったライアン・ジョンソン、ウォーレン・ターナーという2選手と契約してからだ。
カナダチーム内での激しい生存競争を戦っていたライアンとウォーレンは、ジャパーナの開発スタッフとの理想の板開発に取り組んだ。この時代は一般的なスキーの板の主流が、幅の広いカービングスキーに変わっていった転換期。それまでハートのモーグルモデルはGSの板をベースとした細長いモールドだったが、2選手の提案によりそれをカービングタイプにチェンジするプロジェクトが実行された。

大舞台で実証されたメイド・イン・ジャパンの実力

【2002~2005年】

●RESULT
‘02ソルトレークシティ五輪
男子=ライアン・ジョンソン:7位、中元勝也:26位、野田鉄平:30位
女子=ジェニファー・ハイル:4位、リュドミュラ・ディムチェンコ:23位

‘02季のソルトレークシティ五輪。メイド・イン・ジャパンの事実上世界初挑戦ともいえる大舞台で、ライアン・ジョンソンが7位、そして当時注目の若手だったジェニファー・ハイルが4位。メダルには届かなかったがカービングタイプへの変更が間違いではなかったことが証明された。
なお、この五輪では中元勝也、野田鉄平のジャパンチームの2選手、さらにロシアのリュドミュラ・ディムチェンコもハートの板を履いた。

'98年の長野五輪以降、世界の一大勢力になっていたのがフィンランド勢だった。もともとは、いろいろなブランドの板を履いていたが、ソルトレーク五輪以降、サミ・ムストネン、タピオ・ルースァ、さらにミッコ・ロンカイネンと、主要選手が次々にハートの板を選んでいった。
フィンランド勢は板に関する造詣が深く。それぞれが板のスペックに対する意見を開発スタッフに提案。それらを汲み取っていくことでF17の成熟度はアップしていく。

トリノ五輪前年の世界選手権DMではサミ・ムストネンが2位、ミッコ・ロンカイネンが4位。ジェニファー・ハイルが優勝と世界の舞台でHartが結果を出し始めた。また、この大会では伊藤みきが世界選手権初出場を果たしている。

板の開発において、選手だけではなくコーチからの声というのも極めて重要な要素となる。この時代、次期女王の本命とされていたジェニファーからの板への要望は、コーチを通じて伝えられた。それは、彼女がコーチのドミニク・ゴーチェに全幅の信頼を置いていたからだった。結果的に、それがトリノ五輪で最高の結果を生むことになる。

ついにたどり着いた世界の頂点

【2006~2009年】

●RESULT
‘06トリノ五輪
男子=ミッコ・ロンカイネン:2位、アレックス・ビロドー:13位、サミ・ムストネン:22位
女子=ジェニファー・ハイル:1位、ステファニー・サンピエール:12位、伊藤みき:20位

ついにHartが世界を制覇した。トリノ五輪で大本命とみられていたジェニファー・ハイルが金メダル。そして、男子はミッコ・ロンカイネンが銀メダル。

このトリノ五輪で13位になったのが、当時10代だったアレックス・ビロドーである。アレックスはまだ荒削りながら、卓越したエア能力により注目される若手だった。
アレックスはまた、ギアへのこだわりが人一倍強く、製造過程で発生する狭い範囲の個体差にさえ言及するなど、道具への要求の高さ、勝利への強い執着心を持っていた。

この時期からHartは表彰台が定位置となり、'07世界選手権では新たにHartを選んだPA・ルソーが優勝。さらに日本で行われた'09世界選手権デュアルモーグルでアレックスが優勝、タピオが3位、伊藤みきが2位とめざましい結果を残した。

また、この頃の大きなトピックとしては、ルール変更がある。ミドルセクションが従来より長くなり、そこでのターンの完成度がよりシビアに問われるようになるのだ。また、滑りの高速化やエアの進化など、モーグルという種目自体が次なるステージに上がった。Hartスキーの開発者たちは、高速安定性のアップなど、この流れに対応した改善に取り組むことになる。

五輪2連覇達成! 遠藤尚の提案でさらに進化する

【2010~2014年】

●RESULT
‘10バンクーバー五輪
男子=アレックス・ビロドー:1位、PA・ルソー:5位、遠藤尚:7位、ミッコ・ロンカイネン:14位
女子=ジェニファー・ハイル:2位、村田愛里咲:8位、伊藤みき:12位

一斉を風靡したフィンランド勢の力が落ちてきたが、代わりに戦力強化がなされたカナダ勢が母国五輪で大爆発した。Hartを履いた選手が2大会連続で金メダル1つ、銀メダル1つという結果を出した。以後、しばらくカナダの時代が続く。
また、この大会では遠藤、村田という日本の若い2人が上位に進出。新時代の到来を印象づけた。特に遠藤は、スキー板に対する要望を積極的に提案した。従来モデルより、サイドカーブのラディウスも小さく、回転性の高いタイプを求めた。現在のHart Fusion F17のサイドカーブは、遠藤が理想とするターンを基本に設計されたサイドカーブがベースになっている。

バンクーバー五輪後、新たにカナダのデュフォー-ラポイント3姉妹がHartをチョイスしたのも大きなトピックだ。彼女たちが以後の女子モーグル界のトップランナーとして走っていくのはご存知のとおりだ。

続く黄金時代。史上初の五輪ダブル金メダル

【2014~2017年】

●RESULT
‘14ソチ五輪
男子=アレックス・ビロドー:1位、フィリップ・マルキ:9位、チェ・ジェウ:12位
女子=ジャスティン・デュフォー-ラポイント:1位、ジャスティン・デュフォー-ラポイント:2位、デボラ・スカンディオ:11位

五輪3連覇を目指してソチ五輪を目指したHartが、今世紀初の同一ブランド3大会連続金メダルを達成した。卓越した集中力を発揮し、前人未到の2大会連続優勝を狙ったアレックスは、本命だったミカエル・キングズベリーを倒し見事にそれを実現させたのだ。また、女子はジャスティンとクロエが1、2フィニッシュ。2人は遂に2連覇の可能性が高いとされたハナ・カーニーを倒したのだった。空前絶後のダブル金メダル。ソチ五輪はカナダ勢とHartの完全勝利といえる結果だったのだ。

その後、'15世界選手権でジャスティンが優勝。勝負強いところを見せた。また、この大会ではフランスのアンソニー・ベナの優勝というニュースもあった。そして、クロエは'16W杯で初の総合優勝。Hartの強さを立証している。

頂点を争うことはスポーツ用品メーカーとして必要なことだというのがHart スキーの考え方だ。最先端、最前線で得たものを商品開発に落とし込んでいく。自動車メーカーがレースに参戦し、そこで磨いた技術を市販のクルマにフィードバックさせるのと同じことなのだ。

史上初の五輪4連覇を念頭に、Hart Fusion F17は年々、細かい進化を続けている。その最新モデルの詳細はリンク先をチェックだ!

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